二歳が生まれるもっと前から

 

すばるくんになりたかった。

なんて言うと変な目で見られるかもしれない。でも結構本気で思ってたし、今も思ってる。

すばるくんが活動再開してから、コンサートに行く機会は何度かあった。でもすばるくんの歌を聞いて自分がどんな気持ちになるのか想像できなくて、気持ちが向かなかった。正直なところ、これから先すばるくんのコンサートに行くことはきっとないんだと諦めていた。それに、コンサートの席が限られているんだから、そこにはすばるくんのことを一番好きな人が行くべきだと思ってた。だから行けなかった。

でも夏の18祭に参戦してから、なんとなく現場に対する気持ちが変わって、ああ、今ならすばるくんや亮ちゃんのコンサートにも行けるかもしれない、と思った。ちょうどそれくらいの時期に、すばるくんが広島に来ると知った。だから二歳のチケットを買ったのは本当に気まぐれだったし、幸運な偶然だった。

当日、1つずつ間隔があけられた1階席を最後列から見ながら、ああ、私はやっぱりすばるくんになりたかったんだな、と思った。

私はすばるくんの音楽のファンではないけど、彼がずっと憧れで、私とは全然違う人で、絶対になれないからこそなりたい人で、ずっと会いたいと思ってた。会えないと思ってた。会えなくしてたのは他でもない私なんだけど、それでももう会えないと思っていた。なんだ、会おうと思えば会えたのか、と今さら気づいた。

すばるくんがいなくなってから、何もかも変わってしまったと思っていたけど、別に世界が滅亡したわけじゃないし。すばるくんが生きてて、亮ちゃんが生きてて、エイトは今もアイドルをやってて、私はそれを見ている。あの時は確かに絶望したけど、不幸ではなかった。それはあの時も今も変わらない。

私は多分、すばるくんの歌をそこまで熱心には好きでない。それでも世界にはすばるくんの歌が必要だと心底思っている。もっと言うと、この世界にはすばるくんの歌声が必要だと思っている。それで救われる私みたいなのがいるし、もっと強烈にすばるくんに救われた人がいるから。

だからぜひすばるくんには、喉が擦り切れて歌えなくなるまで歌っていて欲しい。思うままに歌っていて欲しい。アイドルだった頃のすばるくんに間に合わなかった私から、今のすばるくんへのお願いは、「歌っていて欲しい」、ただそれだけだ。

 

映画『少年たち』を見たって話

映画『少年たち』を、ジャニーズJrについてほとんど無知の状態で見たことがある。終始風邪の時に見る夢のようだったので、映画館を出てからしばらくの間は虚無顔になっていたし頭の中も虚無だった。メモ帳を整理していたらその当時の感想が出てきたので清書することにしてみました。

以下が当時の感想です。

 


とりあえず忘れないうちに一つだけ、Jrのダンスパフォーマンスや歌声は本当に素晴らしかったので気になってる方はぜひ見ていただきたい。特に音楽。音楽がとてもよかった。あと顔も可愛いかった。目が幸せだった。それは本当にすごくよかった。

まずオープニングは最高にかっこいい。曲中のダンスで登場人物紹介するのはすごくノれるしとてもいいと思う。そこまではよかった。

けどストーリーどうした???え?本当にどうした???????

序盤からもう混乱しかなかった。なぜ主人公は急に歌い出したんだろう。インド映画?「何で君はここ(刑務所)に来たんだ?」って聞かれて「♪それは空が青いから」って え????しかもそれを無言で見守るこうちくんのなんとも言えない微笑み???

もう待って待って。この時点で既に天井を見上げてしまったよね。

 


「看守はマネキンだと思えばいいよ」

まあそれは分からんでもない。人の目を気にしすぎないことって大事だよね。

でもそのあと看守風のマネキンが登場してミュージックスタート。踊り出した。え、何で??????すぐそこに看守いるじゃないですか。あと何で急に画面明るくなったんだろ????さっきまでバチバチしてたじゃん????しかも黒房の関ジュ10人くらいがやんや野次入れるの止めるためだけに看守時間使いすぎ〜〜〜〜後ろ後ろ〜〜〜〜踊ってるから〜〜〜〜〜看守もうちょい仕事頑張ろうか。

 


おっここでめっちゃ怖げな看守長がやってきたよ。ワ!我らの横山さん!横山さん美しい!この瞬間だけはあらゆる違和感を超えてスタオベを禁じ得なかった。お顔とても美しいのに声はベビーボイスで所々甘噛み気味なのもいい味出してる可愛いよいいよいいよ。台詞はだいぶ意味わからんけど全然いいよいいよ。

「世の中には2種類の人間がいる」

えラスボスのテンプレ台詞???まあ横山さん綺麗だから全然いいよいいよ。

 


いやこの看守長も薄暗い過去抱えてんのかい。あの横山さんの絶叫に新たな扉を開かされた人類絶対いるよね。

いやこの看守長器ちっっっっさ!!!!!

囚人同士が仲間割れするように主人公の日記を改ざんしてみたけど思ったほど混乱起きなかったね悲しいね。しかも赤房リーダーは何で入所間もない主人公をそんなに信頼しているんだ?

「俺はお前を信じてる」

そっか、仲がいいのは本当にいいことだよそれは全然OK!でもその主人公、入所して1週間くらいだよね?その信頼を築く過程!!!そこを描いてくれ!!(混乱)それが脚本ってものでは………………????(混乱)(混乱)

 


青房のリーダーと赤房のリーダーの間の確執はきっと凄まじいものがあるんだろう………と覚悟していたらただの逆恨みかよ赤リーダーもそこで微笑むなや。おっとまた歌い出した〜〜〜なんで〜〜〜〜えっ赤リーダーめっちゃ歌上手い〜〜〜でももうちょっと文脈は考えよう。問1、勇気を振り絞って恨みを告白した青リーダーの気持ちを考えてみよう。

 


脱獄したくなるのもわかるよ。なんと言っても看守長の器めっちゃちっちゃいもんな。百均の小鉢くらい小さいもんな。

いやてか眼鏡君さ、

「行き当たりばったりだと?全く、お前ら僕がいないと全然ダメだな」

って言ってた癖にこの脱獄計画の粗さは何??????

そして主人公なぜ急に壁に登り出す??????

「僕が看守の目を引きつけるから、君たちだけでも逃げろ!」

主人公がせっかく体張って囮になってくれたのに、なぜみんな棒立ちなんだ固唾を飲んで見守っとる場合かサーカスのショーじゃないんだよ

 


ここで唐突に主人公屋根から落下!!!

流れる走馬灯!!!

息を呑む看守!囚人たち!

 


なんで!!?!?!

えっしかも主人公死んだ!?!?!

えっしん

だ?!?!?!????!!!!???

友達と仲直りするんじゃなかったの!?!

きみに目を掛けてくれた養護施設の職員の気持ち考えろよ!!!!!

色んな伏線張っといて何も回収せず主人公死んでしまったよ!!!!!

次の日の朝、また囚人たち歌い出すし!集団脱獄とかしたら懲罰房行きじゃないの????何のための懲罰房描写だったの?????えっ何でそんな普通に朝を迎えている????看守長も心做しか悲しそうな顔をしている???えっ???????(混乱……………………)

 


2年後、赤リーダー出所するときの看守長の台詞もだいぶ意味深なんですけど……………

「私はもう…お前の顔なんか見たくないからなっ」

何で急にツンデレ?????赤リーダーもなぜ照れくさそうにしている?????2年の間に何があったの?????その過程を描いて(混乱)(混乱)

 


そして何故か少年たちのショーの場に変貌した刑務所!息子を連れて現れた看守長!子どもおったんかい。(混乱)しかもそこそこ大きいやないかい。(混乱)

看守長の知り合いって誰???なぜ看守長に主人公の日記を渡したの???他にもっと渡すべき人がいたのでは……………????赤リーダーとかに渡してやるべきなのでは………………????何でよりによって看守長………………?????

 


って看守長死んだし〜〜〜〜〜〜〜もうまた急に人が死ぬ〜〜〜〜〜〜なんで〜〜〜〜〜なんで昔の囚人の日記読んで息絶えるということになる〜〜〜〜〜〜〜???主人公と看守長ほとんど接点なかったよね待って私の記憶違いかな?????どうしよう本当に意味わからん1番意味わからんていうかジュニアたちまじでかわいい

 


総括しますと、とても見応えがあって大変良かったと思います。機会があればまた見たいです

「こんな1年」に救われたオタクの話

2020年になって間無しくらいの頃だったろうか。関ジャニのメンバーがホストを務める番組の1つ、そのVTRの中で、かつて関ジャニを応援していた女性が取材されたことが少し話題になった。あまり良くない意味で。その女性は元エイターで、今は別のグループを応援しているとのことだった。私は担降りや掛け持ちには特に負の感情を抱いていないので(というか他人がどんな応援の仕方をしようが本人に迷惑をかけさえしなければ私にはどうでもいい)、ふーんとしか思わなかった。本人が見るVTRなんだからもうちょっと考えた方がよかったんじゃないのかな、とは一瞬思ったけれど。

でも、その女性を批判する声が次々に上がっていることを程なくして知る。それは、「本人が見ると知っている取材で、敢えて下げるような理由で降りたことを伝えたから」だけではなくて、ただ単に「降りたこと自体」を批判する声もいくらか、それも少数ではない数が存在しているようだった。

私は、唖然としてしまった。

降りただけで、こんなに叩かれてしまうのか、と。正直、少しだけゾッとした。

私はこの時、「私たちの自担から降りるなんて許せない!」という全体的なムーブに対して明らかな不快感を抱いておきながら、「全く気持ちがわからない」とは思わなかった。というか、痛いほどに理解出来た。

もう一度言うが、私は担降りや掛け持ちを悪いことだとは思っていない。

なぜなら私は元々、あらゆるジャンルに、あらゆる界隈に、あらゆる作品にあっちゃこっちゃと推しを作っては侍らしてる(言い方)ようなオタクだから。

それなのにこの時期私は、珍しく「私は、関ジャニ以外に推しを作りません!」ってド真面目に思い詰めていたように思う。

当時の私は、「自分は他のグループを応援してはいけない」と本気で思っていた。他のグループを応援することは、関ジャニを裏切る行為であるような気がしていたからだ。ただのファンが何言ってんだと思う。だけどそれが笑えないくらいには、あの時の関ジャニのオタクたちはみんな疲弊していたように思う。その理由は今更腰を据えて説明する必要もないと思うけど、端的に言うなら、関ジャニ∞の体制がたった2年で目まぐるしく変わったからだ。

みんなで一致団結して、この未曾有の危機を乗り越える必要がある。そのためには、とにかく関ジャニだけを応援して、5人に安心してもらわなきゃいけない。そんな薄らとした連帯感があったような気がする。私のただの気のせい、じゃないと思う。

別にその連帯感を悪く言いたいわけじゃない。ただ、そのそこはかとない連帯感は生温かくて心地よくて、でもいつかは溺れ死んでしまうんじゃないかっていう息苦しさも、少しだけあった。今だから言えるんだけど。

他人が掛け持ちすること自体は何とも思わない反面、自分は絶対に掛け持ちをしてはいけない、って本気で思いながら、切羽詰まって死に物狂いで応援していたような、そんな気がする。そして当時の私はそれに嫌々従っていたとかではくて、むしろ「掛け持ちなんてしない」というのが、ファンである上での重要なアイデンティティのひとつであるかのように感じていた。何だかそれは、今思えば異常事態だったと思う。

「気がする」とか「思う」とかいう曖昧な言い方をするのは、あの時の私は、私であって私でなかったような気がしているからだ。その証拠に、あれだけ必死になって応援していたはずなのに、あの半年間のことはなんだかぼんやりとしか思い出せない。

 


さっきも言ったけれど、そもそも私はコンテンツを問わず推しが多い人間で、色々な作品、色々なジャンルに推しがいるのが当たり前だった。それなのにあの時は、「他のグループや他のジャンルに目移りしちゃいけない」みたいな決まりを作って、自分で自分の趣味活動をガンガン狭めていた。物心ついた頃から推しがいたような気がする(それは言い過ぎだけど)生来オタク気質の私としては、自分で自分のオタ活を窮屈にするような真似は、ほとんど初めてだった。一種の病気みたいなものだったのかもしれない。このマインドを他人に強要しなかっただけまだマシだったと思う。


そんな私の中での異常事態と並行して、某新型感染症の影響で生活が一変した。関ジャニももれなくその影響を被って、ライブも番組の収録も、満足に行うことが出来なくなった。私も、ご縁あって丸山さんの舞台『パラダイス』のチケットを手にしていたんだけど、それも全部先が見えないことになった。思っていた2020年とは全然違っていて、いつ終わりが来るんだか先の見えない世界は、「なんとかなるでしょ」と楽観し続けることも難しくさせた。

そんなコロナ禍で、ひたすら走り続けてきた関ジャニは1度、足を止めた。

 


足を、止めてくれた。

そんなふうにさえ思った。

 


関ジャニが「まだ売れたい」「まだ立ち止まれない」と言っているうちは私も振り返ってる場合じゃない!と思って必死に食らいついていたけれど、どこか息切れしていた自分がいたのかもしれない。

それまで関ジャニを応援していて、「イヤだな」とか「苦しいな」とか思ったことはほとんど無かったけど(無いとは言わない)、「置いていかれてる」と思うことは、正直あった。

そりゃアイドルなんだから、そもそもが私と一緒に併走してくれるような存在じゃないし、私はただのオーディエンスに過ぎない。

アイドルだって仕事なんだから、言えること言えないことあるに決まってる。

でも、本当は無理してるんじゃないの?っていう心配はいつも絶えなくて、俺らについてこい!と言ってがむしゃらに走る背中に、ただただ着いていくことしか出来なかった。すごく遠い存在だな、とも思っていた。いや、アイドルだから当たり前なんですけどね!

 


そんな関ジャニが、(ほぼ強制的にではあるが)ようやく足を止めてくれた。

 


正直に言う。

すごくほっとした。いつまでこのひとたち走り続けるんだ?って結構本気で心配してた私にとって(本人たちにとって不本意であることは重々承知した上で)、突然訪れた関ジャニの休息時間は、本当にありがたいと思った。

もちろんコロナには憤りの気持ちの方が強いんだけど、それはもう間違いないんだけど、でも、あの時無理にでも5人のガムシャラマラソンに休憩スポットを作ってくれたことだけは感謝してる。本当それだけですけどね!!

 


あの自粛期間、私は5人からたくさんの愛を貰った。それはもうたくさん、たっくさん。

いやもうこんなにいらないよ!もう持てないってば!逆にどうやってお返ししたらいいの?一生かけても返し切れないんじゃないの?そう思うくらい、重くて大きくてたくさんの愛を、関ジャニから受け取った。おはようからおやすみまで寄り添ってくれたり、一緒に歌を作ろうなんて言ってギターを持ち出してくれたり、リモート飲み会に招待してくれたり(?)。

関ジャニから愛されていると実感するたび、心の欠けた部分が少しずつ癒えていって、5人からの愛を取り零すことなく受け取ろうと精神が働いた。

ほぼ半年振りに、関ジャニに対する気持ちが外側ではなく、内側に向いた気がした。

 


ひとことで言うなら、関ジャニからの愛が私の体内で飽和した。

これ以上ないという程に、5人の愛だけでパンパンに心が満たされた。

 


着いてこい!って言われてる時は、もちろんそれはそれで楽しかったけど、その瞬間瞬間にメンバーひとりひとりがどんな表情してるかなんて、わかりっこなかった。それが今は、一緒に歩こう、って言ってもらってる気がする。

前みたいにガンガン突き進んでいこうぜ!みたいな行け行けドンドン精神ではなくて、一歩一歩踏み締めるような歩き方に変わったような。それでいて、5人の心の中で燃え続ける情熱は赤よりも熱く、青白い炎のようにめらめらと燃え滾っているようにも見える。

時には走ることもつまづくこともあるかもしれないけど、それも全部一緒にやりたい。やってくれる?って、そうやって歩み寄って、寄り添って、愛を確認しあって、足並み揃えるための期間が、この2020年だったのかもしれない。お互い愛し合ってることは何となく空気で感じていたけれど言葉にはしなかった恋人たちが、あえて本音を言葉にして伝えて愛を確かめ合うような、そんな時間が。

 


現金な話だと思うけど、ゆっくり関ジャニと語らう時間があったおかげで、過去の映像を見て心がチクッとしたり、心無い言葉に動揺したり、これからどう応援していけばいいんだろうなんて深刻にな悩んだりすることが、不思議なくらい、パタッと止んだ。

あの停滞期間で私は飽和するほどの愛を受け取り、自分って推しから愛されてるんだ!という自信をもりもり育んで、「他のグループに目移りしないことがファンとしてのアイデンティティ」なんていう状態から、するりと抜け出した。

関ジャニを、関ジャニだけを愛していなきゃ、なんて思い詰めていた状態から抜け出して、驚くほど心が楽になった。

 


そこからの復活は早かった。

興味があったグループや楽曲に積極的に触れるようになって、なんだかジャニーズという概念そのものも以前より深く愛せるようになったと思う。

異常事態から脱却して間もなく、いよいよ私はSnowManと出会うことになるわけだけど、それはまた長くなるので別のブログに書けたらいいな。

 

とんでもないことや初めてのばかりで、傷ついたり、途方に暮れたりした1年だったけど。

でもあの停滞期間があったことで、私はより関ジャニを好きになれたし、そのおかげで他の魅力的な人たちを愛することが出来るくらい、心に余裕ができた1年でもあった。

エンタメに助けられ続けた1年でもあった。

自軍は逆境に強い人たちなんだと実感したし、だからこそこれからはもっと愛されて、報われて、柔らかくてあったかい場所で生きて欲しいとも思う1年だった。

そして、これからもっともっと輝いて欲しいと思える星に出会えた1年でもあった。

 

散々だったことは変わらないけど、それでもみんな、楽しみや幸せや希望を見つけて生きようとしていたって意味で、きっと意味ある1年だったよね。

来年はもっと笑顔で満ちた一年になりますように。

ジャニーズのエンタメ

 

滝沢歌舞伎ZEROという作品は、タッキーの思い描くジャニーズアイドルの概念、それそのものなんじゃないかな、なんて思った。

 

この作品には、緻密に練られたストーリー性があるわけではないし、「歌だけ」「ダンスだけ」といったひとつの専門だけを極めているわけでもない。

言うなれば古今東西あらゆるエンタメをよくばりミックスしたオードブル状態だ。

何でもこなすジャニーズアイドルを象徴しているかのようなマルチさ。

この世のどこに、JPOPと歌舞伎と和太鼓と映画を融合させてしまった映像作品があるだろうか。

だから、これは好きだけどこれは嫌い、これは面白いけどこれはつまらない、なんてのも人によってはあるかもしれない。

 

だけどそれでいい。それがいい。

面白いと思う部分だけつまみ食いするのでもいいし、ちょっと覗いてみるだけでもいい。

人間にできることは思いのほかたくさんあって、その可能性は絞らなくていい、夢はたくさん見てもいい、やりたいことは諦めなくていい。

 

まだまだこんなにも、俺たちにできることはあるんだよって、アイドルのプロってつまりこういうことじゃない?って、そう問いかけられてるようなボリューム感。

今はこうだけど、来年にはもっと出来ることが増えて、もっと楽しませることができます!という漲る自信。

意味とか理由とか考えなくても、ただひたすら見ているだけで、「よし、私も明日から自分の人生頑張ろう!」って無条件に思えるような、満ち溢れる活力のかたまり。

それが、滝沢歌舞伎が長年愛される理由かもしれないな、と初見ながらに思った。

 

この舞台の中にこれでもかと詰め込まれたあらゆるパフォーマンスを完遂するために、SnowManは一体どれだけの時間と体力と精神を要したんだろう。

どれほどのプレッシャーがあったことだろう。

あらゆる方面のプロに引けを取らない技術を、SnowManは何年もかけてこの滝沢歌舞伎という舞台で習得して来たんだということ、そして私はその集大成の観劇者であり、その歴史の目撃者なのだという事実に、どうしたって心を揺さぶられた。

 

滝沢歌舞伎ZEROという作品を通して、「SnowManのプロフェッショナルはこれだ」と、彼ら9人が覚悟を示してくれているように思われてならない。

関ジャニ∞歳時記~冬と夏に寄せて~

1.はじめに

ReLIVEが発売されましたね。シングルとは思えない盛り盛りの特典映像にテンションが上がって、友人や家族に宣伝(という名の自慢)をさせて頂きました。

その特典映像のひとつ、UPDATE高知公演の「キミへのキャロル」を見て、私は衝撃を受けました。

赤と黒と金を基調にした衣装のきらびやかさと、クリスマスベルの澄み渡る音色があいまって、舞台の上は雪景色の街に早変わり。なにより、関ジャニ∞の歌声とベルの組み合わせって、とてもグッときます。ギターの似合う元気なお兄さんたちが、雪のようにきよらかなベルの音に合わせて歌うなんて、もうそれだけでギャップです。ラスサビ前の「何も持ってないんだけど だからこそ抱きしめてあげられるぜ」で大倉さんと丸山さんが手を握り合う振り付けもすごく可愛いですよね。末の妹のお遊戯会を見に行った時と同じくらい、ほんわかぽかぽかした気持ちになりました。

「キミへのキャロル」は掛け合いの歌詞の中に大阪弁が入っているのもとても良い。変にカッコつけすぎないで、敢えて隙を残す感じは、王道ラブソングを歌っていても消えることのない「関ジャニ∞らしさ」という感じがして、私はとても好ましいです。

キミキャロのことばかり長々と語ってしまいましたが……ようするに私はこういう感動を覚えたわけです。

 

関ジャニ∞の冬の曲って、こんなに素敵だったのか!と。

 

関ジャニ∞のシングルの中では特に「罪と夏」が好きな私は、関ジャニ∞といえば夏でしょ!だってあんなにお祭り騒ぎお兄さんたちなんだし!と思ってきました。

もちろんその側面も否定できません。夏の関ジャニ∞の輝きと切なさはジャニーズタレントの中でも群を抜くに違いないと思っています。今も。

 

しかしながらそれは、関ジャニ∞と四季折々の趣を吟味した末の結論ではなく、「関ジャニ∞=夏」という方程式を盲目的にまで信じ込んで、他の季節との相性をまったく無視していた結果と言っても良いでしょう。

なんたる怠慢。

関ジャニ∞と春、あるいは秋、冬の組み合わせの妙をしみじみ感じようという風情が欠けておりました。

 

そこで、今回の自由研究のために温めておいた「丸山隆平さんとサンリオ」という別テーマをとりあえずどこかに置いといて、「関ジャニ∞の楽曲と春夏秋冬」という題材にスイッチすることにしました。

人間、思い切りが大切なので。

キミキャロに感銘を受けたことから、特に冬の歌についてあれこれ考察できると楽しいですね。今は夏だよ!というツッコミは甘んじて受けます。

 

というわけで、この自由研究は超急ピッチで書き上げたものです。誤字脱字やこじつけがあってもご容赦ください。没案については後日個人的に公開させて頂こうかと思います。

 

 

 

2.関ジャニ∞の楽曲と四季折々

それでは実際に、関ジャニ∞の楽曲の中で四季について扱っているもの=季節ソングをざっくり集計してみましょう。個人的な主観で「これは春っぽい」「これは秋っぽい」と仕分けするのはあまりよろしくないので、題名もしくは歌詞の中に季節の言葉が入っている曲に限定して数えます。あくまで厳正に。

もし漏れがあった時は、「こんな冬の歌もあるよ!」とか「これも夏の歌かも!」と教えてくださると嬉しいです。

関ジャニ∞の楽曲一覧については、Uta-Net(https://sp.uta-net.com/artist/2035/)を参考にさせて頂きました。

 

※なお、補足とお詫び

・花の名前が題名につく曲は、その花が咲く季節にカウントさせて頂きました。厳正にと言った直後にゆるゆる基準でごめんなさい。

・「花火」は本来初秋の季語ですが、現代人にとって花火=夏のイメージが強いと思われますので、ここでは便宜的に夏の言葉としてカウントします。

 

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【春】

次の春です。

咲く、今。

青春のすべて

CloveR

アネモネ

桜援歌(Oh!ENKA)

 

【夏】

純情恋花火

罪と夏

Dear Summer様!

夏の恋人

夢列車

蒼写真(1番)

クラゲ

 

【秋】

イエローパンジーストリート

蒼写真(2番)

 

【冬】

Winter love song

Winter pop

あなたへ

北風ブルース

君の歌をうたう

キミへのキャロル

Snow White

冬恋

冬のリヴィエラ

雪をください

One day in winter

 

冬の曲、多い!

春…6曲、夏…7曲、秋…2曲、冬…11曲と、他と比べて頭1つ抜けて多いことが分かりますね。

ファン歴の長い人からすると「そんなの知ってて当然だよ」という感じかもしれませんが、個人的にはかなりのビックリデータです。(ビッグデータと掛けたわけではないです。)

というのも、「季節ソングで一番多いのはどの季節?」(https://selection.music.dmkt-sp.jp/feed/10010291)によると、

 

f:id:Skayo:20200908213025j:image

 

「春」……49%
「夏」……22%
「秋」……14%
「冬」……15%

(dヒッツ調べ)


という結果が出ているからなんですね。

(ここで参考にしているサイトでは調査範囲が明記されていませんが、dヒッツは邦楽を中心としたサブスクであり、邦楽に関するランキング等も多く発表しているため、集計対象は邦楽とみて問題ないだろうと判断しました。間違いがありましたら申し訳ありません。)

 

春は出会いと別れが織り成す多面的な季節であり、季節の情景と人間を重ね合わせたドラマティックな歌が多いことも頷けます。

それにも関わらず、冬の歌が断然多い関ジャニ∞。これは大変興味深い集計結果と言えるでしょう。

 


さて、「I wish」や「マイナス100度の恋」、「10年後の今日の日も」辺りも完全にウインターサウンドですが、冬の季語は登場しないので泣く泣くカットしました。とは言え、「赤い服」とか「大切な夜」という言い回しがクリスマスを指していることは明らかですね。それを鑑みると、冬の歌はさらに多いことが予想出来ます。

ちなみに、関ジャニ∞の冬うた個人的BEST3を挙げるなら、

 

1位 君の歌をうたう

2位 キミへのキャロル

3位 雪をください

 

です。

しばらくの間、2位が雪をください、3位がSnow Whiteで、正直キミキャロはノーマークだったのですが……高知公演のキミキャロを聞いた途端、冬うた勢力図に革命が起きてしまいましたね。おそろしや。

それでも1位は不動の「君の歌をうたう」です。「クリスマス前に別れて ひとりで過ごすイブに」って……歌い出しからもういきなり別れちゃってんじゃん……という切なさ。関ジャニ∞、失恋しすぎじゃない?同じシングル、「GIFT~白~」に収録されている「冬恋」でも失恋しちゃってるし。だからこそ、「キミへのキャロル」や「Winter love song」などで「成功している」ラブソングを歌っているのがいっそう際立つのかもしれませんが。

「君の歌をうたう」は、失恋しているはずなのに悲壮感を覚えさせないところも良いですね。「WASABI」とか「言ったじゃないか」と同じにおいがします。

一言で言うと「違和感」でしょうか?失恋して悲しいはずなのに、音楽は至って明るい。その「違和感」「変な感じ」が癖になってしまうと言いますか。歌詞だけピックアップすれば、何も愉快な(?)失恋ではなさそうなことは確かです。が、クリスマスサウンドのお陰でやけに陽気な歌に仕上がっていますね。「マイナス100度の恋」みたいな曲調ならまだシリアスになりそうなものですが、ここであえてポップに仕上げたからこそ皆に愛されているのかも。

どこか間抜けで愛おしくなるような問答無用に明るいクリスマスサウンドは、案外、失恋ソングととても相性が良いのかもしれません。

 

それから、意外にも秋が少ないことが分かります。「この曲を聞くと何となく秋を思い出す」とか「この曲は秋のことを歌っているように感じる」というインスピレーションの部分ではもっと多いとは思うのですが……歌詞中、題名中に名言されているという観点から見ると、秋の歌は少ないようですね。しかし裏を返せば、直接的な言葉や季語が無くても、メロディやニュアンスだけで「秋感」を出すことが出来る、というのが秋の特徴なのかもしれません。

例えば、私は「Baby Baby」は秋の曲だなと思っています。「満月が見下ろす坂を下る」という一節や、冒頭のギターのメロディは、秋の夜を彷彿とさせるもの悲しさがあって……「長々し夜をひとりかも寝む」という風情があります。

イエローパンジーストリート」は、少し曲者でした。この作品は、「D.W.L」との両A面シングルとして2011年の4月、つまり春にリリースされたものです。さらに、パンジーは品種改良の結果秋に咲く品種や冬に咲く品種が出てきただけで、本来は春に咲く花です。従って、「春うたなのでは?」という指摘もあるかもしれません。しかしながら、私はどうしてもこの曲に「秋」を感じてしまい、春うたに仕分けることを躊躇わざるを得ませんでした。そこでこの歌詞にたどり着きます。

「ねえ うろこ雲の隙間から差す光が 妙に嬉しくて立ち止まったよ」

そう、うろこ雲。「うろこ雲」は秋の季語ですね。もちろん、うろこ雲は秋に多いというだけで、春にも見られないことはありません。ただ季語という観点から見ると、今回は秋に分があるような気がいたします。イエパンは秋うたなのか、春うたなのか、それとも季節は関係ないのか…それはもはやTAKESHI先生のみぞ知る世界ということで、これは私のいち解釈として受け取って頂けると幸いです。

 

さて夏うたは、「罪と夏」のイメージが強いせいか、もっとアゲアゲでケバケバした歌が多いイメージだったのですが、案外、浴衣の君にどぎまぎしたり、夏休みが来るから会えなくなるのを寂しがったり、過ぎ行く夏の切なさを想ったりしている歌が多いみたいですね。夏の歌ではない歌に「夏っぽい歌」が多過ぎるのでしょうか?陽気で賑やかなパブリックイメージに反して、関ジャニ∞、たいそう奥手で純愛派なようです。

 

「蒼写真」は少し特殊な歌ですね。

前半パートは「祭り」「夏草」「蜃気楼」から夏と分かります。「蜃気楼」は晩春の季語ですが、熱気で遠くがゆらゆらと屈折して見えるあの情景は、春と言うより夏ですね。後半パートは一転して「露草」「虫」などが出てきます。これらは秋の季語としてよいだろうと判断して、「蒼写真」の2番は秋の曲に仕分けました。

ひとつの曲の中でふたつの季節が移ろうというのは、「切なさ」「儚さ」を演出するという意味ではこれ以上ない説得力を持っている気がします。「蒼写真」が私たちの胸を打つのは、関ジャニ∞の境遇に重ね合わせてしまうからだけではなく、数分という短い曲の中でさえ一貫しない季節の移ろいの早さに、何となく切なくなってしまうからかもしれません。作詞家の先生の罠にまんまと引っかかった!という感じです。

(本筋から逸れますが、「蒼写真」を作詞作曲した葉山拓亮先生について調べてみますと、「Brilliant Blue」「ルラリラ」「Fight for the Eight」「Winter Love Song」「北風ブルース」も葉山先生のご提供曲らしいです。何とも素敵な曲ばかり…特に「Brilliant Blue」の情趣の豊かさときたら、関ジャニ∞の楽曲中屈指ではないでしょうか。「汚してしまいたい」とか「思いよ薄まれ」と訴える歌に、よりにもよってbrilliantという言葉を当てるの、皮肉のキレが良すぎてゾクゾクします。)

 

本題に戻ります。

春の曲についてですが、「花」とか「咲く」という言葉が題名につく曲が多いので、これらを春にカウントすべきか迷いました。「渇いた花」とか、「咲いて生きよ」とか。「CloveR」は、まあ、シロツメクサは春の草だし……と言い訳しながら春に仕分けました。春も、秋のように直接的な言葉は避けて表現しているような印象です。夏や冬のように時節として強烈でないぶん、言葉は曖昧にして、空気感だけで季節を感じさせるのが粋なのかもしれませんね。

(「桜」「卒業」なんかの象徴的な言葉は別ですが。)

「咲く、今。」の「出会って 別れて 笑って 泣いて」なんかはそれが顕著な気がします。言葉だけ切り取るとなんてことない動詞の羅列ですが、極限まで引き算したバックミュージックの切なさとも相まって、「卒業」の2文字が浮かび上がるのは必至です。「咲く」に「出会い別れ」が重なると、そこに「春」だの「桜」だのが無くても、それは春の歌になってしまうんですね。

 

数値の上では冬の曲が多いのですが、関ジャニ∞を語る上で欠かせない季節といえばやはり夏。夏といえば関ジャニ∞関ジャニ∞といえば夏なのです。(暴論)

代表曲の「無責任ヒーロー」や「ズッコケ男道」はどちらかと言えばお祭り騒ぎの夏って印象ですし、デビューシングルの「浪花いろは節」だって盆踊りの音頭みたいな側面がありますから夏と言って差し支えないでしょう。

関ジャニ∞には、「夏」という言葉や夏の季語が含まれていないにも関わらず、夏を彷彿とさせる歌が多く存在するように思います。

よって、「関ジャニ∞の季節ソングツートップは冬と夏」説が浮かび上がるわけです。

 


そうなると、元気印の関ジャニ∞に冬の曲を宛てがう意味についてはとても興味深いものがありますね。

 

 

 

3.関ジャニ∞と夏と冬

ここでふと、「関ジャニ∞の歌って夏っぽいのと冬っぽいのが多いよね」と思ってるのが私だけだったらどうしよう?と不安になってきたので、Twitterのアンケート機能を利用し、「関ジャニ∞の楽曲で好きな季節は?」という質問を行うことにしました。

結果としては、

 


春…4%

夏…45%

秋…1%

冬…50%

(2020/8/24集計)

 


となりました。

夏と冬という全く逆の季節の曲が同じくらい支持を得るというのは面白い結果ですが、これは関ジャニ∞だけに限定した話では話ではないかもしれませんね。同じアーティストが手がけるテーマとしてはまったく極端な性質を持つ夏と冬、このふたつに偏るのもむべなるかなという感じです。

 

ここで、「関ジャニ∞の季節といえば?」というアンケートの結果もご覧頂きましょう。

 


春…2%

夏…71%

秋…3%

冬…24%

(2020/8/25集計)

 


ここでは夏が圧倒的です。


個人的に新たな発見として、関ジャニ∞に「春」「秋」「冬」を感じるファンも一定数いるということが分かりました。私は、夏に票が集中して春秋冬は限りなくゼロに近くなるだろうと予想していたのですが……いや浅慮でした。

 


さて、そのグループ自体が持つ季節のイメージと、人気のある季節ソングの傾向が一致しないのは、なかなか面白い結果ではないでしょうか。楽曲人気が夏に集中せず、むしろ夏を上回る勢いで冬の楽曲が人気なのは注目すべきことだと思います。

 


これは何となくの印象ですが、関ジャニ∞の「夏の側面」に惹かれて沼を覗き、「冬の側面」を見てしまったが最後引きずり込まれて戻ってこられなくなった人が多いように思います。これはいわゆる「ギャップ」というやつですが、楽曲方面に限定して言うと、「夏」「冬」という言い方が出来そうです。


もちろん比喩としての意味も大きいですが。


浪花いろは節」のカップリング曲「Cool magic city」も、題名はどことなーく冬っぽいような気もしますし……

関ジャニ∞とは、夏と冬の両側面を持って生まれたグループであり、それこそが最大の魅力なのかもしれません。

(もしも関ジャニ∞が夏の側面だけを持つグループだったら、私はこんなにも彼らに惹かれていなかったことだろうと思います。きっかけこそクロニクルでのわちゃわちゃした姿だったけれど、「好きだなあ」と実感したのは、関ジャムで様々なアーティストとセッションする静かなる音楽人としての姿、あるいはラジオでゆったりと喋る姿だったのだから。)

 

 

 

4.まとめ

関ジャニ∞というアイドルは総合的に見ても多才かつ多彩なグループですが、楽曲にのみ焦点を絞ってみても、四季折々の様々な側面があり、それぞれの側面に支持者が存在することがわかりました。


ひとくちで2度美味しいってやつでしょうか?


関ジャニ∞の楽曲人気が夏冬に集中する理由についてですが、これは「カッコイイところを見たらカワイイところが見たい、カワイイところを見たらカッコイイところが見たい」という、ファン心理に依るところが大きいのは言うまでもありません。

それから、関ジャニ∞が地上波で見せるのはどうしたって「夏の顔」ですし、「夏の歌」に偏ります。そのぶん、コンサートやシングルのカップリング曲、アルバム曲で見せてくれる「冬の側面」は、関ジャニ∞とファンだけのヒミツの約束って感じがして、いっそう冬の歌への思い入れが強くなるのかもしれませんね。

 

関ジャニ∞の持つ「冬の側面」に惹かれた瞬間から、関ジャニ∞の本当の沼が始まると言っても過言ではないのかもしれません。

 

となると次は、母数が膨大になりますが、関ジャニ∞が発表した楽曲を全て「夏」か「冬」のどちらかに大別した一覧なんかも作ってみたいですね。それこそ個人の主観に依りますが…これが綺麗に5対5になったら圧巻ですし、どちらかに偏っていても考察のしがいがありそうです。

 

 

以上、関ジャニ∞歳時記~冬と夏に寄せて~でした。乱筆ながら最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

2020.08.27

荒野に咲く

 私は、「誰かを好きになる」ということは、「いつかそうでなくなる瞬間を覚悟する」ということだと思っている。

 何かのファンをやっていると、自分に都合のいい理想を作り上げたり、勝手な思い込みを自らに刷り込んだり、相手に期待を押し付けたりしてしまうことは、決して珍しい話ではないと思う。そしてその予想から外れた行動を見せられると、途端に「裏切られた」と掌を返す。これもきっと同じように、珍しい話じゃない。その行為の是非は別として。

 そしてその自分勝手も、「好きがゆえ」と銘打ってしまえば、外野が簡単に批判できなくなるという狡い仕掛け付きだ。

 私はそうじゃない、そんなことしない、と口にするのは簡単だけど、こればかりは「絶対」なんてない。私だって、推しに落胆したり、好きじゃなくなったりすること前提で応援している訳じゃないけれど、「好きでなくなる瞬間なんて絶対に訪れない」とは言いきれない。丸山隆平さんのお言葉を借りるなら、人生は常にライブであり、何が起きるか誰にも分からないのだから。

 

 自分も含めて、人間なんていうのは基本的に利己的な生き物なのだと思うし、それが悪いとも思えない。「自担のために」なんていうのは都合のいい免罪符であり、推しを応援するのもお金を払うのも、全ては自分の欲求を満たすためでしかないんだもの。

 

 

 ところで、ちょうど1年前、5人体制になることが発表されてしばらくの間。私は、自分の気持ちが分からなかった。関ジャニ∞に対する感情が、迷子になっていた。

 今でこそ「私の応援の仕方を、誰かにあれこれ口出しされる謂れはない」と開き直っているけれど、その時はただただ、「自分が恥ずかしい」と思っていた。

 周りのエイターさんはみんな自分の感情に折り合いを付けているのに、私だけ、こんなに中途半端な気持ちのままでいる。関ジャニ∞を応援したいのか、したくないのか。そもそも、関ジャニ∞のことを好きなのか、そうじゃないのか。そんなことも分からないまま、呆然とする日々が続いた。

 今になって思えば全然そんなことなくて、ほとんどのファンは自分の気持ちに整理がつかなかったり、ついていけないと思ったり、未来を不安に思ってたり、色んな気持ちになっていたと思う。でも、自分のことで必死な時に、周りのことなんて見えないよね。だから、世界にたったひとり、自分だけ取り残されたような気持ちになっていた。とんだ被害妄想。でもそれくらい、心細かった。

 

 さて、言葉を選ばずに率直に言うならば、私はきっとあの時、関ジャニ∞のことが「好き」ではなかった。

 かと言って嫌いだったわけでは勿論ない。でも、一も二もなく「好き」とは言えなかった。少なくとも、9月の発表以来、自分の中で「関ジャニ∞に対する感情」が決定的に変わってしまった。これだけは確かだった。気持ちが着いて行かなくて、どうしたらいいか分からなくて、そんな自分がどうしようもなく恥ずかしかった。

 だから、しばらくの間は5人から離れようと思った。何か別のことを考えて、この苦しい「何か」から逃れてしまおうと思った。

 毎日のように聴いていた関ジャニ∞のプレイリストを封印して、あんまり詳しくない洋楽を聴いてみた。高校生になってからはじっくり聞けていなかった私のバイブルに戻ってみた。友達が勧めてくれたバンドの曲をよく分からないまま聴いてみた。勉強中に関ジャニ∞のラジオを聞くルーチンも一切やめて、ついでにtwitterもログアウトした。

 もしこれで関ジャニ∞への気持ちが薄れるなら、それはそれでいいと思った。そのときは、私の愛はその程度だったんだと思って、関ジャニ∞が好きだったことも、亮ちゃんを応援していたこともさっぱり忘れてしまおう。もともと飽きっぽい性格だったから、案外すぐ忘れられるかもしれない。そう思っていた。本気だった。

 

 でも、無理だった。離れられなかった。

 

 ふと1人になった瞬間...帰りの真っ暗なバスの中だとか、お風呂に入っているときだとか、寝る前の布団の中だとか、考えないようにしよう、忘れようと思うたび、関ジャニ∞のことを考えてしまっている自分がいた。気がついたら関ジャニ∞を求めてしまっている自分がいた。声を聞いたら苦しくなると分かっているのに、歌を聴けば悲しくなると分かっているのに、顔を見れば罪悪感が湧いてくると分かっているのに。

 意識的に関ジャニ∞から離れようとしていた期間は、生きているのに生きていない感じがした。喉が渇いているのを、ずっと我慢しているみたいだった。麻酔が切れたまま手術を受けているみたいでもあった。そうか、そういうことなんだなと思った。

 

 それからは、どんなに苦しくなっても、悲しくなっても、「関ジャニ∞」について行こうと決めた。半ば意地だった。こんなところで終わりにしてたまるか、離れてたまるか、半笑いで脱退の話を振ってきた人も、慰めるフリして哀れんできた人も、みんなみんな見返してやる、って。まあ、どうやって見返すかなんて分からなかったし、受験期で色んなことが重なってやさぐれてただけだと思うけど。

 とにかく、私たちは全然かわいそうなんかじゃなくて、不憫でも哀れでもなくて、ただ好きだから関ジャニ∞を応援しているだけで、彼らがいてくれるだけで世界一の幸せ者なんだよって、自分にも周りにも言い聞かせた。そして何より、そのことを関ジャニ∞に伝えたかった。

 

 私はきっと、勝手に「関ジャニ∞はこれ以上欠けたりしない。6人は6人でなきゃダメなんだ」と思い込んでいた。まるで呪いのように。あるいは縋るように。自分で自分に刷り込んだその勝手な思い込みが、ある日突然前触れもなく変化してしまって、戸惑って、どうしたらいいか分からなくなっていたんだと思う。それは、これまで関ジャニ∞だと思っていたものがぐらりと根底から歪んで、消えて無くなってしまったかのような衝撃だった。私がこれまで応援していたものは何だったんだろう。その問いは、私というファンのアイデンティティーの喪失とほぼ同義だった。

 

 そういう葛藤を経て、何となく分かった。関ジャニ∞っていうのは人数じゃないし、状況でもない。表面の形が変わっても、それでもしぶとく残り続ける何かがあって、たぶん、それが「関ジャニ∞」っていうものの本体なんだと思う。

 人数が変わろうが形態が変わろうが、そこに吸い寄せられてしまっているので、もはや自分では離れられない。好き嫌いを越えたその部分が惹かれ合ってしまっているので、もはや自分では関ジャニ∞への愛をコントロール出来ないのである。

 

 たぶん、関ジャニ∞の表面はこれからも変化する。私の知らない姿をたくさん見せてくれる。それは正の方向の変化であって欲しいと切に願うけれど、もしかしたら、思いもよらない変化や悲しい変化もあるかもしれない。絶対はないから。そのたびに私は、関ジャニ∞への感情が変化したり、向き合い方を見直したりするだろう。1年前にきりが無いほど葛藤したように、いっぱい悩むだろうし、自問自答するだろう。

 だけど、それが何だと言うんだ。

 私は今もまた、「関ジャニ∞はこれ以上欠けたりなんかしない」と、自らに刷り込んでいる。でもこれは、前のようにヒリヒリと痛むような切望ではない。むしろ、「それはそういうものなんだ」という「事実」を、よく噛んで飲み込むような作業に似ている。

 関ジャニ∞というものは、概念として完成したのだと思う。人数とか、形とか、状態とか、そんなものには囚われない、もっと遠いところーーあるいは手を伸ばせばいつだって私たちをつつんでくれるようなところーーに、関ジャニ∞という概念が完成されて、そこにいる。

 

 

 私はまた、永遠を夢見る。一度見失った永遠を、再び夢見る。今の5人を見ていたら、やっぱり永遠はあるんじゃないか?と思う。そしてきっと、実際に、ある。関ジャニ∞という「永遠」はすでに完成されて、ファンとともにある。あの日信じていた永遠は、まったく壊されてなどいなかった。

 

きっと私にとって、「好き」とか「好きじゃない」とかじゃ測れないところに関ジャニ∞はいて、きっとそこは、私の、私たちだけの天国だ。そして時に地獄で、希望で、絶望で、光で、影で、涙で、宝物で、夢で、愛だ。

この世界を包むおよそ全ての感情が、そこにはある。

私が彼らを思うということ

 

 

 

10代も後半になって、ジャニーズにハマった。

それはもう見事にハマった。

もともとオタク気質というか、1度気に入ったらとことん推す体質なので、初めてのジャンルであること以外は、特段意外性もなく受け入れられた。

 

 

じゃあそれまでは何を推していたかというと、日本史と文芸と、二次元作品である。

 

 

どれも、いまを生きてはいない。

 

 

実在しないものに、これまで夢中になってきた。

 

 

 

その中でも私が心惹かれていたのは、日本史だった。

特に、歴史物語。

例えば大河ドラマだったり、歴史小説だったり。

 

遥か昔の遠く昔、かつてこの日本で生きていた数多の人々の、その一人一人が必ずドラマを持っていて、それらが繋がって、今の日本になっている。

そう思うと、歴史の「物語」の部分に触れることは、まるでタイムスリップのようで、他のどんな娯楽作品よりもドラマティックだと思った。

 

そういう訳で、歴史を知ることは、私にとってテレビを見るのと同じ感覚だった。

 

同年代の子たちが、俳優やアイドルに夢中になるのと同じように、歴史上の人物の生涯に夢中になった。

同年代の子たちが、ラブストーリーや学園ドラマに釘付けになるのと同じように、歴史的事件に触れ過去の世界に没頭した。

 

その気持ちの部分に、なんら差異はなかった。

 

ただひとつだけ違うのは、私の推しは「生きていない」ということで。

 

合戦でどうしてこの場所にこの人を配置したのか、とか、

なぜあのタイミングで和解しようと思わなかったのか、とか、

疑問に思うことは湧くように溢れ出てくるのに、今となっては、それを答えてくれる人なんてどこにもいない。

全ては後の世の人々の推測に過ぎない。事実はなくそこには解釈があるだけ、ってやつ?

前後関係から読み解いても、人の心なんて他人には分からないし、そもそも意味なんて最初から無いようなものなのかもしれない。

そもそも推しが本当に生きていたかどうかすら分からない。

 

分からない。

 

寝て起きたら「全て嘘でした!」と言われてもおかしくないような不安定な土台の上に、私の「推し」は成り立っていた。

 

 

だから、本当はちょっと羨ましかった。

生きている人間を推すというのが、ちょっとだけ羨ましかった。

 

推しの人生がリアルタイムで進んでいく時、毎分毎秒欠かさず同じ世界で過ごすことが出来るなんて。

 

なんて素晴らしいことだろう。

 

推しと同じ時代の、同じ星の、同じ国で生きていけるなんて………

 

現世で徳を積んだら叶うかな?

 

なんて半分本気で思っていた。

 

 

すると、転機というのは案外早く巡ってくるもので、ほとんど偶然のようにして、私は関ジャニ∞に出会った。

 

そして当然のように恋に落ちた。

 

恋という表現が、正しいのかどうかは分からないけれど。

それでも、日々飽きることなく恋焦がれているのだから、あながち間違いでもないだろう。

 

 

 

そんな私だから、新規も新規、ド新規だけれども、好きになった時は、

 

「ああ、やっと会えたね」

 

という気持ちになった。

一方的にね。

 

 

 

いろいろ、現状について、言いたいことも言えないこともある。

彼らのやることなすこと、すべて受け入れられるファンばかりじゃない。

そんなの当然だ。

だって人間なんだもの。

そう。人間だよ。

私が人間であると同時に、彼らだって人間だ。

やりたいことが変わることだってあるだろう。

言ったことが嘘になることだってあるだろう。

それを憤るも受け入れるも個人の自由。

 

ただ私は、できる限りは肯定的な立場でいたい。もちろん、倫理的にアウトなこととか、犯罪とかは別にしてね。

やりたいことをやっている彼らを、私の「期待」と「偏見」で押し潰してしまうのは、なんだかあまりに勿体ない。

 

先にも述べたとおり、私なんかは「推しが生きていない」状況から入ったわけで。

 

今の、「推しと同じ世界を生きている」という状況が、今でも信じられないくらい、幸せで。

 

ほんの2年前までは、私の推しの行動は既に過去の出来事で、何か決定的な証拠が現れない限り、変化することも確信することもなかった。

 

それが今はどうだ。

 

「何が起きるか分からない」

 

これってすごく残酷なようで、でも同時に、ある種の特権だと思う。

 

なぜって、それは推しが生きていることの裏付けでしかないんだもの。

 

推しの意見が変わること、

行動や性格が変わること、

本当ばかりではないこと、

 

そのどれも、推しが現実を生きていることの確かな証明でしかない。

 

生きている人だから変化するし、変化するのが当たり前。

 

でもその当たり前すら実感できなかった過去の私から考えれば、今はものすごく贅沢だなと思う。

 

これはもちろんわたしの考えだから他人に強要する気なんてさらさらないし、

彼らのことを批判する人たちのことを恨みがましく思ったりもしない。

 

ただ、「変わってゆくこと」自体も愛おしく思う、そんな推し方もあるよね、という話。

 

お花畑だと思われちゃうかな?

でも、盲目になっているつもりは一切ない。

 

何もかも肯定するなんて絶対に無理だし、擁護しすぎることが愛だとも思わない。

ただ、全肯定も納得もできなくて、彼らに対してどこか仄暗いモヤモヤを抱えていたとしても、それでも応援していていい、っていうのは、ファンの特権だと思うから。

 

いまを生きる人が、歴史になっていく様を私は見ている。

そういう気持ちで、いつも応援している。

 

だから、8人も7人も6人もなかったことにしない関ジャニ∞さんの姿が、頼もしくて愛おしくて仕方がない。

過去と未来と現在と、織り成す歴史も含めて愛したい。いつか、こんなこともあったね なんて言って笑いたい。そうして、彼らの歴史のほんの一部になれたらいいな。

そうやってこれからも応援していくよ。

 

何かがあったわけじゃないけど、ふとそんなことを思った水曜日の夜でした。

 

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