荒野に咲く

 私は、「誰かを好きになる」ということは、「いつかそうでなくなる瞬間を覚悟する」ということだと思っている。

 何かのファンをやっていると、自分に都合のいい理想を作り上げたり、勝手な思い込みを自らに刷り込んだり、相手に期待を押し付けたりしてしまうことは、決して珍しい話ではないと思う。そしてその予想から外れた行動を見せられると、途端に「裏切られた」と掌を返す。これもきっと同じように、珍しい話じゃない。その行為の是非は別として。

 そしてその自分勝手も、「好きがゆえ」と銘打ってしまえば、外野が簡単に批判できなくなるという狡い仕掛け付きだ。

 私はそうじゃない、そんなことしない、と口にするのは簡単だけど、こればかりは「絶対」なんてない。私だって、推しに落胆したり、好きじゃなくなったりすること前提で応援している訳じゃないけれど、「好きでなくなる瞬間なんて絶対に訪れない」とは言いきれない。丸山隆平さんのお言葉を借りるなら、人生は常にライブであり、何が起きるか誰にも分からないのだから。

 

 自分も含めて、人間なんていうのは基本的に利己的な生き物なのだと思うし、それが悪いとも思えない。「自担のために」なんていうのは都合のいい免罪符であり、推しを応援するのもお金を払うのも、全ては自分の欲求を満たすためでしかないんだもの。

 

 

 ところで、ちょうど1年前、5人体制になることが発表されてしばらくの間。私は、自分の気持ちが分からなかった。関ジャニ∞に対する感情が、迷子になっていた。

 今でこそ「私の応援の仕方を、誰かにあれこれ口出しされる謂れはない」と開き直っているけれど、その時はただただ、「自分が恥ずかしい」と思っていた。

 周りのエイターさんはみんな自分の感情に折り合いを付けているのに、私だけ、こんなに中途半端な気持ちのままでいる。関ジャニ∞を応援したいのか、したくないのか。そもそも、関ジャニ∞のことを好きなのか、そうじゃないのか。そんなことも分からないまま、呆然とする日々が続いた。

 今になって思えば全然そんなことなくて、ほとんどのファンは自分の気持ちに整理がつかなかったり、ついていけないと思ったり、未来を不安に思ってたり、色んな気持ちになっていたと思う。でも、自分のことで必死な時に、周りのことなんて見えないよね。だから、世界にたったひとり、自分だけ取り残されたような気持ちになっていた。とんだ被害妄想。でもそれくらい、心細かった。

 

 さて、言葉を選ばずに率直に言うならば、私はきっとあの時、関ジャニ∞のことが「好き」ではなかった。

 かと言って嫌いだったわけでは勿論ない。でも、一も二もなく「好き」とは言えなかった。少なくとも、9月の発表以来、自分の中で「関ジャニ∞に対する感情」が決定的に変わってしまった。これだけは確かだった。気持ちが着いて行かなくて、どうしたらいいか分からなくて、そんな自分がどうしようもなく恥ずかしかった。

 だから、しばらくの間は5人から離れようと思った。何か別のことを考えて、この苦しい「何か」から逃れてしまおうと思った。

 毎日のように聴いていた関ジャニ∞のプレイリストを封印して、あんまり詳しくない洋楽を聴いてみた。高校生になってからはじっくり聞けていなかった私のバイブルに戻ってみた。友達が勧めてくれたバンドの曲をよく分からないまま聴いてみた。勉強中に関ジャニ∞のラジオを聞くルーチンも一切やめて、ついでにtwitterもログアウトした。

 もしこれで関ジャニ∞への気持ちが薄れるなら、それはそれでいいと思った。そのときは、私の愛はその程度だったんだと思って、関ジャニ∞が好きだったことも、亮ちゃんを応援していたこともさっぱり忘れてしまおう。もともと飽きっぽい性格だったから、案外すぐ忘れられるかもしれない。そう思っていた。本気だった。

 

 でも、無理だった。離れられなかった。

 

 ふと1人になった瞬間...帰りの真っ暗なバスの中だとか、お風呂に入っているときだとか、寝る前の布団の中だとか、考えないようにしよう、忘れようと思うたび、関ジャニ∞のことを考えてしまっている自分がいた。気がついたら関ジャニ∞を求めてしまっている自分がいた。声を聞いたら苦しくなると分かっているのに、歌を聴けば悲しくなると分かっているのに、顔を見れば罪悪感が湧いてくると分かっているのに。

 意識的に関ジャニ∞から離れようとしていた期間は、生きているのに生きていない感じがした。喉が渇いているのを、ずっと我慢しているみたいだった。麻酔が切れたまま手術を受けているみたいでもあった。そうか、そういうことなんだなと思った。

 

 それからは、どんなに苦しくなっても、悲しくなっても、「関ジャニ∞」について行こうと決めた。半ば意地だった。こんなところで終わりにしてたまるか、離れてたまるか、半笑いで脱退の話を振ってきた人も、慰めるフリして哀れんできた人も、みんなみんな見返してやる、って。まあ、どうやって見返すかなんて分からなかったし、受験期で色んなことが重なってやさぐれてただけだと思うけど。

 とにかく、私たちは全然かわいそうなんかじゃなくて、不憫でも哀れでもなくて、ただ好きだから関ジャニ∞を応援しているだけで、彼らがいてくれるだけで世界一の幸せ者なんだよって、自分にも周りにも言い聞かせた。そして何より、そのことを関ジャニ∞に伝えたかった。

 

 私はきっと、勝手に「関ジャニ∞はこれ以上欠けたりしない。6人は6人でなきゃダメなんだ」と思い込んでいた。まるで呪いのように。あるいは縋るように。自分で自分に刷り込んだその勝手な思い込みが、ある日突然前触れもなく変化してしまって、戸惑って、どうしたらいいか分からなくなっていたんだと思う。それは、これまで関ジャニ∞だと思っていたものがぐらりと根底から歪んで、消えて無くなってしまったかのような衝撃だった。私がこれまで応援していたものは何だったんだろう。その問いは、私というファンのアイデンティティーの喪失とほぼ同義だった。

 

 そういう葛藤を経て、何となく分かった。関ジャニ∞っていうのは人数じゃないし、状況でもない。表面の形が変わっても、それでもしぶとく残り続ける何かがあって、たぶん、それが「関ジャニ∞」っていうものの本体なんだと思う。

 人数が変わろうが形態が変わろうが、そこに吸い寄せられてしまっているので、もはや自分では離れられない。好き嫌いを越えたその部分が惹かれ合ってしまっているので、もはや自分では関ジャニ∞への愛をコントロール出来ないのである。

 

 たぶん、関ジャニ∞の表面はこれからも変化する。私の知らない姿をたくさん見せてくれる。それは正の方向の変化であって欲しいと切に願うけれど、もしかしたら、思いもよらない変化や悲しい変化もあるかもしれない。絶対はないから。そのたびに私は、関ジャニ∞への感情が変化したり、向き合い方を見直したりするだろう。1年前にきりが無いほど葛藤したように、いっぱい悩むだろうし、自問自答するだろう。

 だけど、それが何だと言うんだ。

 私は今もまた、「関ジャニ∞はこれ以上欠けたりなんかしない」と、自らに刷り込んでいる。でもこれは、前のようにヒリヒリと痛むような切望ではない。むしろ、「それはそういうものなんだ」という「事実」を、よく噛んで飲み込むような作業に似ている。

 関ジャニ∞というものは、概念として完成したのだと思う。人数とか、形とか、状態とか、そんなものには囚われない、もっと遠いところーーあるいは手を伸ばせばいつだって私たちをつつんでくれるようなところーーに、関ジャニ∞という概念が完成されて、そこにいる。

 

 

 私はまた、永遠を夢見る。一度見失った永遠を、再び夢見る。今の5人を見ていたら、やっぱり永遠はあるんじゃないか?と思う。そしてきっと、実際に、ある。関ジャニ∞という「永遠」はすでに完成されて、ファンとともにある。あの日信じていた永遠は、まったく壊されてなどいなかった。

 

きっと私にとって、「好き」とか「好きじゃない」とかじゃ測れないところに関ジャニ∞はいて、きっとそこは、私の、私たちだけの天国だ。そして時に地獄で、希望で、絶望で、光で、影で、涙で、宝物で、夢で、愛だ。

この世界を包むおよそ全ての感情が、そこにはある。